万代ブログ

河北潟干拓地

2023.05.18 【能登半島地震関連観光等

今回は弊社の近隣にある河北潟干拓地についてご紹介いたします。

1    河北潟干拓地とは

河北潟干拓地は石川県の中央付近に位置しており、現在の金沢市と内灘町、津幡町、かほく市に跨る。干拓地とは、湖や海の水を排水して耕地などにした土地をいう。日本には、多くの干拓地があり、石川県だけでも河北潟干拓地、柴山潟干拓地、今江潟干拓地、邑知潟干拓地などがある。なお、全国的には次のようなものがあるが、諸元についてはその中の一部を紹介する程度にとどめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次図は、今回紹介する明治42年時点の河北潟と現在の河北潟干拓地の重ね図である。かつての河北潟は、現在の金沢市や内灘町、津幡町、かほく市の4市町に接する南北10㎞、東西5㎞程度の潟湖であった。現在は河北潟干拓地ができ、かつての1/3程度の面積になっている。ちなみに、干拓前の河北潟は面積が23㎢で日本で20番目の大きさである。最大水深は2mである。

 

 

 

 

 

図1.1 明治42年頃の河北潟と現在の干拓地

 

 

 

 

 

 

2 河北潟・加賀平野の形成史について

河北潟は、石川県加賀平野の北端付近に位置する。河北潟の西側には、標高60mを超える箇所もある内灘砂丘が南西-北東に連なり、陸地と日本海を隔てる。河北潟の南部から東部は、沖積低地からなる。

河北潟や加賀平野は、その成因が内灘などの砂丘の誕生と関係が深い。今回はアーバンクボタ「北陸の丘陵と平野(1992)」を参考とし、簡潔に整理した。なお、文献に示される情報は、河北潟の干拓事業に際して数多く実施されたボーリング調査や河北潟放水路建設時の掘削面の情報などを参考に推定されている。

a縄文時代早期末

海水準は、現在とほぼ同じ水準まで上昇している。この頃内灘からかほく市高松付近にかけては、中位段丘が海側に張り出していた。その段丘に砂州が形成され、徐々に砂丘へと発達していく。

b縄文時代前期末

縄文海進の絶頂期には、河北平野や邑知低地にも海が深く入り込む。内灘付近では、砂丘が南側へ発達する。

c縄文時代中期

海進のピークを過ぎると海水準は徐々に低下し、内灘砂丘の南部などではこれまでに形成された内列砂丘の前面もしくは前面を覆うように中列砂丘が形成された。内灘砂丘の場合は中列砂丘が形成されることがなく(前面に形成され、後に消失しているのかもしれない)、旧砂丘の上面が形成された。他の地域ではこの下位の砂丘と内列の砂丘の間には、縄文時代の遺跡などが出土することがあるが、内灘砂丘の場合には旧砂丘の上面付近がこれらに該当する。

d古墳時代初期

縄文時代後期から弥生時代、海水準は現在よりも2m程度低下し、汀線が少し沖合に後退する。この時期になると、旧砂丘や中列砂丘の上は植物が繁茂し、凹地は小さな沼地が形成されたのではないかと考えられている。古墳時代の初めころ、海水準が現在のレベルまで上がってくると、内灘砂丘では旧砂丘上に新砂丘が形成される。しかし、内灘砂丘より南部などでは、内列砂丘の前面に外列砂丘が形成され、3列の砂丘が形成されているところもある(小松市付近)。

以上の砂丘の発達により、現在の加賀平野付近は海と隔てられた潟湖や湿地を形成する。さらに河川より大量に運搬された砂・泥などが堆積物し、加賀平野を形成する。河北潟はこの沖積平野の形成過程途中にある潟湖であり、数千年後には埋積物で覆われ加賀平野の一部になるのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3  河北潟の干拓計画

(1)前田綱紀による開拓

昔の河北潟は、底が浅くて皿のような湖沼である。ここに浅野川をはじめ多くの川が流れこみ、大野川を通じて日本海に至る。このため、大雨が降ると潟の水位は高くなり、晴天が続けば水位が下がって、潟縁に干潟ができたそうだ。

河北潟の干拓の始まりは、天保2年(1645年)に加賀5代目藩主となった前田綱紀の時代に遡る。寛文12年(1672年)このあたりで狩りをした綱紀が、付近の干潟をながめて開墾の計画をたてと伝えられる。この当時の開拓は、河北潟の東側に当たる現在の津幡町の一部や金沢市の北部が該当する。

綱紀は現在の津幡町潟端付近や金沢市利屋付近を開拓させ、本格的な村並みに直して「潟端新村」や「七ツ屋」が生まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2)銭谷五兵衛による野望

現在の金沢市の北部で日本海に接した地域に金石(当時は宮腰と呼ばれた)という地域が存在する。銭屋五兵衛は、11代藩主前田治修の頃、安永2年(1773)この宮腰に生まれる。銭屋の屋号は、もともと金銭の両替えと質屋を家業としていたからで、彼が39才のとき質流れの船で始めた海運業が図に当たる。これにより銭谷五兵衛は、北前船で日本海をかけめぐった海の豪商として名を上げた。なお、現在でも金沢市には、銭谷五兵衛記念館が設けられている。北前船は、日本海を蝦夷に向かい米、酒、塩、砂糖、紙、木綿などを運び、帰りは太平洋経由で昆布、鰊(にしん)、〆粕(しめかす)などを運んだ。これらの商いによる利益は、上り700両、下り300両と言われ、現在の貨幣価値に換算すると1億円相当である。ちなみに、当時は、銭谷五兵衛の他にも多くの廻船問屋があったそうだ。

銭谷五兵衛の北前船が日本海をかけめぐったころと相前後して、ロシア、イギリス、アメリカ等の異国船が日本列島の海岸に近づき始めた。加賀藩では、異国船が着岸したときの処置令を出している。このような情勢のなかで、海運業の前途に暗雲を感じた企業家銭谷五兵衛(当時76歳)は、私財を投入して河北潟埋め立てによる大開発地主を目指した。この時期の埋め立ては、河北潟の南部から東部、北部にかけてであった。具体的には、現在の金沢市東蚊ヶ爪、大浦、木越、才田、八田から津幡町太田、潟端、さらにはかほく市領家、指江、狩鹿野などである。銭谷五兵衛による埋め立て工事は、遠方から賃金の安い出かせぎ人夫を雇い、地元村々をうるおさず強い反感を買うはめとなった。後世、銭谷五兵衛の評価を左右する理由の一つである。

河北潟周辺は非常に軟弱な地盤であり、河北潟の底なし沼にちょっとやそっとの杭を打っても効き目なく、銭谷五兵衛自身海中に銀を投ずるごとしと言ったそうだ。

埋め立て工事に対する地元民の反感は妨害に発展し、毒物投入、死魚発生の公害問題を生み、埋め立て事業は一挙に瓦解した。毒物の投入は工事現場の魚を毒物で駆逐し、漁民の立入り(漁を口実とする妨害)を除くためとも、あるいはまたヘドロ対策として石灰俵に特殊な油を混ぜて使ったためとも言われており、死魚の発生は自然現象で埋め立て工事が原因ではないとの説もある。

いずれにせよ、加賀藩は銭谷五兵衛財閥の解体を図ることとなった。この結果、嘉永5年に捕らえられ、同年11月80才の五兵衛は判決をまたずに牢死する。翌年には息子や首連累を処刑し、没収された財産は藩の記録で12万両となっている。銭谷五兵衛の総資産は300万両といわれ、藩の没収した額はもっと大きかったとも言われている。しかも、銭谷五兵衛の埋め立てた土地はどこにもなく、野望の幕切れとなった。

 

 

 

 

 

図3.2 銭谷五兵衛の埋め立て計画地

北陸農政局 国営河北潟干拓建設事業「完工記念誌」より引用

 

 

 

 

(3)内灘村の懇願

河北潟に面する市町は、現在の金沢、津幡、かほく、内灘と四つあるが、内灘は他の三つ町に比べて事情が異なった。内灘全体の面積の80パーセントは砂丘で占められ、明治末期の水田面積はわずかである。内灘村の村人は主に河北潟や日本海沿岸漁協が主体であるが、出稼ぎ漁業なども行っていた。ところが、不漁による出稼ぎ漁業などの不振が続くと生計を立てることができず、農地を求める機運が高まっていった。

昭和7年から8年にかけて、日本をおそった経済恐慌の影響もあり、緊急の公共事業が行われた。具体的には、内灘の宮坂、西荒屋、室地内に砂丘の砂をトロッコで潟縁まで運搬して堤防を築き、水田4.6町歩を生みだした。運んだ砂は全部で4万4千立方メートル、潟底の泥土3千立方メートル。この埋め立て工法は、銭屋五兵衛の時代と大差なく、ただ近くに砂丘の豊富な砂があり、トロッコという新しい運搬道具が出現していた程度である。堤防に使った、粗朶や葦のくさりが早く、流されたものも多かったという。

終戦後、昭和25年には朝鮮戦争が起こり、日本の一部ではアメリカ軍から兵器・弾薬などの注文を受けてうるおった。しかし、日本では砲弾のテストをする試射場が必要となり、そこで試射場として選定されたのが内灘砂丘である。内灘では、この試射場の利用と引き換えに河北潟の干拓を懇願した。しかし、昭和32年、試射場の使用が打ち切りとなり、補償事業としての干拓事業も見送られた。これに変わって出てきたのが、内灘側の潟縁の埋め立てで、昭和7、8年頃と同じような工法に留まった。

 

 

 

 

図3.3 内灘村昭和初期の埋立地と試射場
北陸農政局 国営河北潟干拓建設事業「完工記念誌」より引用

 

 

 

 

 

図3.4 現在の内灘町と昭和初期の埋立地
(※一部推定)

 

 

 

 

 

 

 

 

4.国営河北潟干拓事業

昭和20年の敗戦後、戦後の復興及び食料不足の解消のため、河北潟干拓の夢が復活した。この干拓事業は、金沢農地事務局(北陸農政局の前身)に引きつがれた。昭和25年、最初にたてられた計画は、430へクタールの干拓と、潟縁周辺1,130ヘクタールの地上げを行うものだったが見送りとなった。続いて、昭和27年に、干拓の面積を900ヘクタールに増やすべき調査が開始され、5年の歳月を要して昭和31年に終えた。

その後、昭和35年より本格的な実施設計に取りかかり、昭和37年に面積1,400ヘクタールの干拓計画ができた。そして翌38年に「国営河北潟干拓土地改良事業」が発足した。

具体的な事業としては、砂丘を開削し河北潟の洪水調整用の放水路を設けること、干拓地周辺に締め切り堤防を設置し干拓地の水を排水ことからなる。締め切り堤防には大量の土砂が必要となったがこの土砂は、放水路工事で取り除いた砂が利用された。なお、河北潟干拓では、作業をすべて水の上を走る舟の機械が使われた。水面下の土を掘るポンプ船や掘った土を運ぶ運搬船、そして掘った土を運搬船に積みこむ機械などである。

 

 

 

図4.1 干拓状況模式図
北陸農政局 国営河北潟干拓建設事業「完工記念誌」より引用

当時の工事状況が国土地理院HPよりダウンロード可能な空中写真で読み取ることができる。次の写真が昭和42年撮影の空中写真である。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真4.1 河北潟干拓工事中の空中写真(S42年撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真4.2 放水路掘削状況(S42撮影)

放水路掘削箇所にポンプ船と運搬船と思われる作業船がみられる。
海側には、既に潮止水門が完成している。

 

 

 

 

 

 

 

放水路掘削状況

北陸農政局 国営河北潟干拓建設事業「完工記念誌」より引用

 

 

 

 

 

放水路掘削状況

北陸農政局 国営河北潟干拓建設事業「完工記念誌」より引用

 

 

 

 

このような大規模な工事により完成した河北潟放水路は、完成後既に50年以上が経過した。令和5年現在、老朽化対策として潮止水門などの付け替え工事が行われている。

 

<引用文献等>

参考文献等

・北陸農政局 国営河北潟干拓建設事業「完工記念誌」

・アーバンクボタ「北陸の丘陵と平野」(1992)

・いちらんやHP(https://ichiranya.com/society_culture/013-polder.php

・金石の歴史を知る会会長(林吉三)様提供資料「北前船寄港地船主集落 金沢市における認定地区」

・国土地理院空中写真閲覧サービスによる空中写真

 

 

 

 

 

 

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